昭和五十六年六月二十九日 朝の御理解


御理解第六十一節
神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。


 中に金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えてとこういうところがありますね。真の信心をさせるのが神へのお礼だという風に、金光大神の教えを違わぬようにということは、どういうことだろう。そういう信心が神へなるのぞと最後におっしゃっておりますね。金光大神の教えを違わぬよう自分が受けて頂いて、それをまた人にも伝えていくという生き方なら、絶対金光様の御信心は心が神に向こうていかないはずがないです。
 いわゆる、ははぁ、生神への精進とはこういうことだなぁということが分かってくるようになるんです。ですから、問題は、その違わぬようにということであると同時にです、金光大神が教えられた事がもう、その着になれば、誰しもが頂けるのであり、行ぜれるのであるというところに金光教の信心の素晴らしさがあると思うですね。
 そんなとても人間技では出けませんというような例えば教えがあったら、違わぬように守ることも出けん人に伝える事も出けません。そげん難しかなら、私共は出けんということになる。
 所が金光大神の教えられたことは、自分が素直に受けるという気になったら、誰でも頂けれる。そん教えだけは難しかというのではない。そういう意味あいで金光教の信心、また教えの素晴らしさをいよいよ実感するわけですけれども、所がなかなかそれを違わぬように教える人がないね。
 昨日は丁度ここ三日間ですね、御本部の方で先生方の信心の研修がございました。偉い先生方を講師に迎えての五十数名だったそうですが、ここからも竹内先生、佐田恒行先生、坂根先生三人が参加いたしました。今度帰ってお話を聞いて有り難いと思うたことは、今まで行ったから何か合楽の信心とは、ころ離れた、もうとにかくまあ、いわゆる人力の限りをつくすところだけが、こう説かれるのですけれども、このたびはどの先生の話でも、合楽の話を頂いかなければ分からんというように、いうならばもうとにかく、神力にすがるより他にない。人力を捨てて、神力にすがるとこう、というようなお話ばっかりだったということを聞いて、まあ大変有り難いと思うた事でございます。
 確かにそうです。どんなに手だてを施しましてもね、どういうよい方法をとりましても、金光教の信心ではそれじゃ助からんです。ね、けれども自分の力というか、それをかなぐり捨てて、神力にすがる。そこから湧いてくる自ずと湧いてくる力、人力、これでなからにゃならんです。というお話を頂いて来たということでございますが、まあ聞き終わって話したことでした、有り難いなぁと、まあいうならばもうとにかく、おかげは和賀心にありとおっしゃるから、和賀心をいよいよ極めていく以外にない。和賀心による所のおかげ、人間が手だてを講じたから、ああしたからというて広がるとか、布教が出けるという事じゃない。ね。 いうならば金光大神の教えを違わぬように守っていっておると、必ず和賀心が育って来る、生神への精進とは、この事かと思うように、和賀心が育ってくるね、だからこれからが、もうそこまで本部の方でも、気付かれたわけ。手だてじゃない。もう信心、信一筋だ。取次の先生方自身が助かり、いうならば信ずる力を頂くより他にないといったようなお話であったそうです。有り難い。
 そこでなら、どうでも合楽理念の出番というのが、近づいて来たような気がするねというのでございます。ね。人力に見切りをつけて神力にすがれ、人力自ずから湧く。その人力自ずから湧く所の手だてが合楽理念なんです。又はそうしなければおれないように、まあ合楽理念は説くのです。しかも容易う説くのです。誰でも出けるその気になればでける説き方をするのです。
 昨日先生方あちらにまいりましてね、今ここで竹内先生の家内になっております圭奈子先生のお父さんが今あちらで本部の方で修行しとられます。それで正教先生に話されることが、この頃ずっとお知らせを頂く。もういろんな偉い先生方のお知らせを頂くというなら、世界万国津々浦々とこういう地球儀のような物を頂いて、どこの先生はこのくらいそこを祈りよる。どこの先生はここら辺なんか丁度時計の針のようにお知らせ下さる。合楽の先生の事を願うと一辺どうりぐるっと回る所を頂いたというお話を聞いてきとります。
 私は思うね。私の祈りがやっぱし交いよると思うです。天地に本当にそうです。ここで総代さん達がお取次を願われるのもやっぱそうです。親先生の願いが世界万国津々浦々にという、これも切実なんです。ね。
 しかも和賀心時代を十三日会を放生会をもう此の三つの願いをいうものは、世界のどこの誰でもよく説明させすれば、しみ通っていけれる内容をもっておるということです。いわゆる普遍性に富んでおるということなんですね。それが日夜、ここでは祈り願われておるのがその古屋という先生ですけれども、古屋さんの御神願に映じたのは、合楽の場合、こう世界万国津々浦々に合楽の御理解を頂いていったら、誰でも信心が出けて来るようになる。世界万国津々浦々の事を、これは言葉だけの事じゃない。本気で願わねばならんように、合楽理念は説くものですね。
 ただ皆さんの祈りも段々育っていって大きくなっていかなきゃいけません。空論ではいけません。空ではいけません。言葉だけなら、誰でも出ける。真剣にその事が祈れれるようになる。
 三人で金光様の所にお取次を頂いております。ここでも必ずこういう風に皆、おかげ頂いたのをもって帰ってくるんですよ。それぞれにやっぱお書き下げを下さってある。所がね、坂根先生が頂いたのには御神米が三体下がっておる。そして坂根氏じゃなくて、山根氏と書いてある。ハァ、金光様でっちゃやっぱ、間違いなさるばいの、という感じですね。所が間違ってないんです。私が今度その事を、それを思うて金光様は目が悪いから間違えてんなさるじゃろうとこう思うた。
 所がこの山の上に拝という拝むという字を頂いた。ここでいつも頂く、養素拝山ということを頂くでしょう。山じゃ、いや坂根の坂じゃいかんわけ。ね。今度あんな方、三日間講習を受けたね。それをなら、まとめてどこに焦点を置くかというたら、いうならば山を根にする以外にはないぞと教えられたと私はいただきました。
 養素拝山、自分の心をいよいよ豊に大きくしていく養素という物はなね、山を拝んでいく以外にはないというのが、あの養素拝山の御理解です。今栄四郎達が住んでおる部屋に上がっておる額です。ね、いよいよいうなら心が豊に大きくなって初めて大きくなれば成る程、なら大きな願いということもでける事になる。小さい心で大きなおかげを頂かせて下さいとこう願ってもね、頂けるはずはないでしょう。だからどうでも心を大きくしていく以外にはないです。
 合楽理念のいうならばもう、とにかく和賀心にしぼる以外にはない。金光様の御信心は人間の知恵、力など一辺かなぐり捨てて、神様一心にすがっていく以外にはないということが分かってきた。その事がこの度の三日間の話のいわば中心であった。どの講師の先生のを聞いても、そうですが、去年一昨年でしたか、ここにお話に見えました、福山か福島という先生の、今度その方が所長になられるそうですが、その方のお話を聞いておると、本当に合楽のお話そのもの、だからそれをなら、身につける実験し、しかもそれが楽しゅうでけるような説き方というものはない。和賀心が和賀心がというても、ならどういう信心すれば和賀心になるかという事を合楽理念は説くのです。
 だから、まあ、そこまでは分かった。なら、それを自分の血に肉にするためには、合楽理念をもって来なければ、出来んのじゃないか、分からんのじゃないかという風にまあ思うのです。その芯をなすものは、いうならば坂根氏ではなくて山根氏であります。今日私はこの事の御理解を頂いて六十一節ということはお徳を受けるにも受けるお徳をプラスする、その第一を六十一というのはもう限りなくお徳を受けていく、その第一番の願いは、いわゆる山根氏である。
 合楽ではここん所を何故その山を大切にしなければならないか、何故苦しいとか悲しいとか云っておるけれどもその悲しいこと、云うならば苦しい事その事が神愛だぞと、もうそれこそ誰でも分かるように説くわけ。
 だからその事をそれこそ夢にも思わなかったようなおかげの頂ける前提として、お礼を申し上げるような信心。いわゆる山根。これが根にならなければならない。金光大神の御教えを違わぬようにというのは、どの御教えを頂いても、お徳を頂くことの為の御教えとしか思えません。ね。それを煎じ詰めるとこう云うならば、養素拝山。云うならば山が根である。修行が根である。
 ならその修行が自分たちがね、様々にどげな修行したらよいかという事をです、分からんもんだから、水をかぶったり断食したりするわけです。ね。それを合楽理念に基づくとそう云うことはもう間違いということになってきた。金光大神の教えた事を間違って教えたり、自分が行じたりしてはおかげにならん。金光大神が教えられた事を水をかぶったり、物を食べなかったりと、教祖様はかぶることをかべったりとこうおっしゃっておられます。は。金光大神は大嫌いとおっしゃっております。最近の御教えにそれが分かったんです。ね。金光大神が大嫌いとおっしゃるような修行に取り組んで、自分は修行してるつもりでおっては、合楽理念に基づく修行でなからなければ、豊にも大きくにもならん。
 いわゆる天下国家の事が切実に祈らずにはおれないという信心の成長ということも出来ない。改めて合楽理念のね、云うならば、あのう素晴らしさというのは金光大神の教えられたことを違わずね、私が行じて皆さんにそれを分かりやすく、なら実例をもって説いておるのですからね。金光大神の云われることを違わぬように、皆さんが守って違わぬように伝えていくという生き方こそが、それが神になるのぞ。
 だから金光大神の云うなら教えのひとつのシステムのような物はね、段々教えを行じよるといつの間にか自分が生神の方へ向かっておるごたる風にできてるんです。ね。それを行じない途中であのう、割り切った考え、割り切った信心に住ますと、もうまあ、それこそ何じゃら、かんじゃら分からんような結果になってくるんです。
 限りないこれは生涯かけての事ね、生神を目指すということは難しいですけれども、金光大神の御教えをです、分かりやすく頂いて、誰でも行じらるように、行じて云っておると、自分の心がいつの間にか豊に大きくなって、いつの間にか金光大神を生神金光大神を目指しておる、そして、段々祈りも大きゅうなって来るという風な、信心を身につけていかなきゃならない。有り難いね、教団でもそこん所が段々分かっていっておられる。そこでそれを身につける為には、こりゃ合楽理念を引っ張ってこにゃんと云う時代がくるのじゃないでしょうかね。
                                 どうぞ